「なぜ私は親鸞会をやめたのか」を読んで
(25)歎異抄、思いっきり現代誤訳?浄土はこの世のことか。
平成19年9月22日朝日新聞に「歎異抄、思いっきり現代語訳」という記事が掲載された。
9月に五木寛之氏の『私訳 歎異抄』(東京書籍)が出版された。それに呼応してか、真宗大谷派の研究交流期間である「親鸞仏教センター」から、歎異抄の解釈本が出版予定と発表された。批判覚悟の「試訳」というのだが。
以下、記事より
あくまでセンターによる独自の研究成果で、本山(東本願寺)が公式訳と認めたわけではない。浄土は死後の話ではなく、生きている今、救われていくことと理解する。親鸞が語ろうとした浄土とは「闇に包まれた私たちの心が明るくされた世界」ではないか、というのだ。
ただ本当は、「往生」には死のニュアンスも込めたかったという。しかし、それにこだわりすぎると、現代では人々に届かない恐れがあると考え、あきらめた経緯がある。日常からの死のイメージが遠ざけられがちな現代を意識してのことだ。
(asahi.com:歎異抄、思いっきり現代語訳)
センター独自の意見であり、本願寺の公式訳ではないとしてあるが、「浄土は死後の話ではない」というのは、果たして正しいのだろうか。
それが親鸞聖人の教えであるか、否かの判断は、あくまで親鸞聖人ご自身の書かれたもので判定しなければならない。だから、親鸞会は、常に親鸞聖人のお言葉を根拠として話をしている。
親鸞聖人の教えは、二益法門といわれている。現世の利益と当来(死後)の利益、この二度の救いを教えられた方が、親鸞聖人であるから、親鸞会では、つねにこの現当二益が明らかにされる。
救いがこの世だけとすれば、一益ということになるが、それは明らかに誤りである。
親鸞聖人がこの世の幸福(現益)と死後の浄土往生(当益)をハッキリ区別なされ、現当二益のあることを教示なされたお言葉はたくさんあるが、ここでは『末灯鈔』のお言葉を紹介しよう。
「信心の定まると申すは摂取にあずかる時にて候なり。その後は正定聚の位にて、まことに浄土へ生まるるまでは候べし」(十三通)
「信心が定まる≠ニは、摂取不捨の幸福を獲得したときだ。それからは死ぬまで、必ず浄土へ往ける大安心・大満足の、正定聚といわれる身になるのである」
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば浄土にて、必ず必ず待ちまいらせ候べし」(十二通)
「親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。必ず浄土へ往って待っていようぞ。間違いなく来なさいよ」
このように親鸞聖人が、死後の浄土をハッキリと教えられているのに、「浄土は死後の話ではない」と本願寺の仏教センターは言う。親鸞会が、上記の聖人のお言葉を示し、それに反対するのは当然である。
これでは、親鸞聖人が亡くなられたあとに、異説を歎いて書いた、歎異抄そのままになってしまう。
歎異抄が、「思いっきり現代誤訳」されては、作者とされる唯円房も、さぞまた、歎いているに違いない。
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記事一覧
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