(15)善知識ってどんな人?(親鸞会への大きな誤解2)(3/6)

船に乗るには車は捨てよ

これで明らかになったように、私たちを救うことの出来る力のある仏は阿弥陀仏以外にはありません。否、私たち凡夫だけではないのです。『般舟経』には、

「三世諸仏・念弥陀三昧・成等正覚」

と説かれています。

これは、
「すべての仏は阿弥陀仏の力によって仏になったのだ」
と釈尊が言われたことですから、一切の諸仏や菩薩も、この弥陀の力によらずしては成仏出来なかったのです。だからこそ、釈尊は阿弥陀仏を本師本仏と崇め、諸仏は異口同音に阿弥陀仏の威神功徳の不可思議なることを讃嘆していられるのです。
あらゆる仏をして、仏たらしめた仏こそ阿弥陀仏なのですから、私たち凡夫は、尚更この仏によらずして助かる訳がありません。

ですから、釈迦も諸仏も諸菩薩も総て弥陀の本願一つを説くことをもって、その任務とし、私たちに等しく「無量寿仏を一向専念せよ」とお勧めになるのです。
  この本願の生起本末を知らず、諸仏菩薩の御心をふみにじって釈尊や諸仏・菩薩に救いを求めるということは、自ら、釈尊や諸仏、菩薩を苦しませ、泣かせていることになります。これを蓮如上人は、

「阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏の、これを喜びたまわざるべきや、このいわれをもって、よくよく心得べし」(御文章二帖)

と仰っています。

しかも、このことは極めて重大で、ただに釈尊や諸仏や菩薩を悲しませるだけでなく、本願の生起本末が聞こえていないのだから絶対に助からないのです。なぜなら、前述の仏願の生起本末で明らかなように、「他に救うべきものがないから、我よく汝を救う」とある弥陀の本願の仰せに反対し、この本願力を疑っているからです。

言葉をかえると、

「いずれの行にても、生死を離るることあるべからざるを、あわれみたまいて願を起こしたまう本意、悪人成仏のためなり」(歎異鈔)

と仰せになっている弥陀の誓願に信順せねばならぬのに、諸仏や菩薩に心を向けるということは「これらにも我を救う力あり」とすることですから、弥陀の本願にしたがわないで反対し、本願の仰せを疑っていることにな
るからです。ですから弥陀をたのまんとする者は、諸仏や菩薩は捨てねばならないのです。船に乗らんとするものは、車を捨てねばならぬと同じ道理です。

だからこそ、親鸞聖人や蓮如上人らが、この釈尊・諸仏・菩薩方の出世本懐の御金言に随順して救われ、これを身命を賭して伝えられ、たのむべきは弥陀の本願の一道あるのみであることを明示なされたのです。

真宗の骨目

親鸞聖人は「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」とまで『御伝鈔』に仰っています。「往生の肝腑」「自宗の骨目」とは、
「このこと一つをぬいたら一切の人々は絶対に助からんぞ」
ということです。
続いて聖人は『御伝鈔』の中で、

「今の行者、あやまって観音・勢至に仕うることなかれ、直に本仏を仰ぐべし」

と仰せになっています。また、

「聖道外道におもむきて余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり。これは外道なり。これは偏に自力をたのむものなり」(一念多念証文)。

「聖道、外道におもむきて余行を修し、余仏を念ず」とは、禅宗の寺に行って座禅を組んだり、奈良の大仏や道端の地蔵に礼拝したり、賽銭投げたり、供え物をすることです。
親鸞聖人はそれらの人を「仏教徒でもなければ、真宗の信者でもない、あさましい外道の輩だ」と仰っています。そして続いて、このようなことを言わずにおれない根元はどこにあるのかと言えば、「これ偏に自力をたのむものなり」と断定なされています。

 

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