(3)親鸞聖人の言葉 その2(教行信証)

 もちろん、親鸞聖人の主著『教行信証』には、信心決定(弥陀に救いとられた)の体験を何度も告白されています。

「噫、弘誓の強縁は、多生にももう、あいがたく、
    真実の浄信は、億劫にも獲がたし。
     たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

 もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
   かえりてまた、曠劫を逕歴せん。
 誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
   聞思して遅慮することなかれ」(『教行信証』総序)

「ああ……なんたる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、求めつづけてきた歓喜の生命を得ることができた。これはまったく、弥陀の強いお力によってであった。深く感謝せずにおれない。もし今生も、無明の闇の晴れぬままで終わっていたら、未来永遠、浮かぶ瀬はなかったであろう。なんとか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを」



「ここに、愚禿釈の親鸞、
  よろこばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、
   あいがたくして今あうことをえたり、
   聞きがたくして、すでに聞くことをえたり。

 真宗の教・行・証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
 ここをもって、聞くところをよろこび
   獲るところを嘆ずるなり」(『教行信証』総序)

「よろこばしきかな親鸞。なんの間違いか、毛頭遇えぬことに、今遇うことができたのだ。絶対聞けぬことが、今聞くことができたのだ。釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、伝えて下さる人がいなかったら親鸞、無明の闇の晴れることはなかったであろう。

 ひろく仏法は伝えられているが、本当の弥陀の誓願不思議を説く人は稀である。その稀有な、弥陀の誓願を説く印度・中国・日本の高僧方の教導に、親鸞今遇うことができたのだ。聞くことができたのだ。この幸せ、何にたとえられようか。どんなに喜んでもよろこび過ぎることはない。

 ただただ知らされるのは、阿弥陀如来の深い恩徳である。身を粉にしても骨砕きても、お伝えしなければならない」



「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮びぬれば、
   至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず」(『教行信証』信巻)

「大悲の願船に乗って見る人生の苦海は、千波万波きらめく明るい広海ではないか。順風に帆をあげる航海のように、なんと生きるとは素晴らしいことなのか」



「よろこばしきかな。心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
  ふかく如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚をあおぐ。
    慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。(中略)
 ただ、仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず。

 もし、この書を見聞せん者は、
   信順を因となし、疑謗を縁となし、
    信楽を願力にあらわし、妙果を安養にあらわさん」(『教行信証』後序)

「昔、楚の国(中国)の愚人が、家宝の剣をひそかに持ち出し、急流に浮かべた舟上で、試し切りに興じていた。切れすぎた反動で、剣は飛んで水中にジャボンと落ちた。舟はどんどん流されてゆく。驚いた彼は、さっそく、剣の落ちた舟べりに小刀で、深く印を刻み込み、?やれやれこれで、剣のありかは安心じゃ?とつぶやいたという。刻印の移動がまったく念頭にない愚かさを笑ったものであろう。

 金や財を力にしている者は、金や財を失った時に顛倒する。名誉や地位を力にしている者は、それらをなくした時に失墜する。親や子供を力にしている者は、親や子を亡くした時に倒壊する。信念を力にしている者も、信念ゆらいだ時にまた崩壊する。

 崩れるものに樹っている人生は、薄氷を踏むように不安だが、たとえ釈尊、善導、法然さまがゆらごうとも、心を不倒の仏地に樹て、不思議の世界に生かされた親鸞は、なんと幸せ者なのか。ますます阿弥陀如来の慈恩の深きを知らされ、師教の高恩を仰がずにおれない。

限りなきよろこびは、返し切れない報恩に親鸞を泣かす。この弥陀の大恩を念うとき、世間の恥辱など、ものの数ではない。

 この書を読む人には、信ずる人もあろう。そしる者もいるだろう。いずれも、それを因とし縁として、弥陀の救いに遇い、未来永遠の幸福を獲得してもらいたい。そう念ずるばかりである」

 これらのお言葉を本願寺では、どう教えられているのでしょうか。このようなお言葉の正しい意味が、果たして明らかにされているのでしょうか。

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